「ゲノム」とは生物の遺伝情報であり、現代の医学ではこの情報を編集できるようになりました。
細胞分裂前の受精卵に、遺伝子を切断するための溶液を注入し遺伝子を改変するのです。
これが「ゲノム編集」で、いわば生物の性質を変えてしまう技術です。
(このコンテンツは雑誌「週刊現代」2017年6/24号(Amazon)181~188ページを参考にしています)
ちなみに遺伝子組み換えでは、目的の遺伝子を狙い通り場所に入れるのは難しく、偶然に頼る作業でした。(成功率は一万分の一ともいわれています)
対してゲノム編集では、狙った場所を切り、ピンポイントで遺伝子を組み込むため、正確で高い効率の作業が可能です。
ゲノム編集で実現していること
ミオスタチンという、筋肉が発達しすぎるのを抑制する遺伝子があります。
ミオスタチンを切除した受精卵から生まれた生物は、筋肉の発達が促されます。
このゲノム編集を行うことにより、京都大学農学研究科と近畿大学水産研究所は通常より筋肉が多い真鯛を育成しています。
この真鯛は、通常の養殖真鯛と比べて体重は1.2倍、食べられる身の部分は1.6倍も大きくなります。
アメリカでは、この技術を使って肉付きのよい牛も生まれています。
こうしたゲノム編集の研究は現在各国で盛んに行われていて、その結果様々な動植物が生み出されています。
・大きな米粒をつける稲
・腐りにくいトマト
・黒ずみにくいマッシュルーム
・ソラニンが極めて少ないジャガイモ
・黒い目を赤く変えたハチ(目の色を決定する遺伝子を特定する)
・マラリア原虫への耐性を持つ蚊(マラリア撲滅が期待されている)
人間も”改変”できる エイズも完治?ほか
ゲノム編集は、人間にも適用できます。
アメリカではHIV患者のマット・シャープ氏が、自身の白血球にゲノム編集を施して体内に戻す臨床試験を受けています。
HIVウィルスは、白血球の突起に取り付いて侵入・増殖します。その突起をゲノム編集により取り除いたのです。
試験後にシャープ氏の免疫力は改善し、副作用も起きていません。
そのほかにも、ゲノム編集により以下のような”人体改変”が可能とされています。
骨の強化
骨密度の低下や骨粗鬆症、逆に骨密度が異常に高くなる骨硬化症には、LRP5と呼ばれる遺伝子の異常が関係しています。
LRP5を改良することで、骨の異常解消を実現できます
がん治療
がん細胞は、体内の免疫細胞であるT細胞の働きを抑制し、自らを攻撃されにくくします。
そこでゲノム編集によりT細胞を活性化すれば、がん細胞に対する免疫力を高めることができるのです。
太りにくい体質にする
肥満に関係している遺伝子は複数あり、それらをターゲットに改変を行えば、太りにくい体質は実現可能とされています。
上で挙げたミオスタチンのほか、代謝や成長ホルモンに関係する遺伝子、食欲を抑える遺伝子などが対象になります。
怒りっぽくない性格
怒りっぽい性格にも遺伝子が関係しています。
長崎市の水産総合研究センターでは、ゲノム編集によって、おとなしい性格のマグロを生み出しています。
衝突死が少なくなり、養殖に適したマグロになります。
認知症を防ぐ
認知症は、ゲノム編集による高い成果が期待されています。
特にアルツハイマー型は遺伝性が強く、要因となる遺伝子も明らかになっています。
心臓疾患や脳梗塞を防ぐ
PCSK9という遺伝子を壊すことで、コレステロール値を下げて心疾患や脳梗塞を予防する研究は、ゲノム編集治療の中でも活発に行われており、こちらも高い効果が期待されています。
子供の鼻を高くする
顔のパーツの中で、鼻の形は4~5個の遺伝子が影響していることがわかっていて、改変できる可能性は高いとされています。
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現時点ではできないこと
遺伝子を改変すれば、何でもできるのでは?というイメージがありますが、ゲノム編集を以てしても現時点では難しいとされていることはあります。
薄毛を治す
「薄毛は遺伝の要素が強い」といわれることもあり、ゲノム編集の”得意分野”のように思えますが、薄毛は関連する遺伝子は数が多く、しかも生活習慣やストレスなど後天的要素も大きな影響を受けます。
直接的な原因となる遺伝子を絞り込めない限り、ゲノム編集による治療は難しいと考えられています。
身長を高くすること
アメリカの研究によると、身長に関わっている遺伝子は697個あるといわれています。
かなりの多さですが、これらの遺伝子も身長を決める要因のひとつでしかありません。
遺伝子よりも生活習慣や食生活の影響のほうが大きいという説もあり、ゲノム編集を施しても、それが背を伸ばす決定打にはならない可能性は高いのです。
IQを高める
国際研究期間の報告によると、記憶力、注意力、言語能力など、知能に関係する遺伝子は52個確認されています。
しかしそれらの遺伝子ではIQ差の20%しか説明がつかないことがわかっています。
また、アメリカの大学が同じ遺伝子を持つ双子のIQを比較したところ、遺伝によIQの影響は20~50%ほどでした。
知能に関しては、遺伝子との関連が占める割合はむしろ少数派であり、後天的な学習や家庭環境による影響が大きいと考えられます。
ゲノム編集すれば誰でも天才になれるわけではないようです。
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指摘されている問題点 バイオハッキングや遺伝子ドーピング
人間にとって様々なメリットをもたらすと期待されるゲノム編集ですが、危険性も秘めています。
ゲノム編集の安全性はまだ未知数の部分が多く、間違った遺伝子改変が行われたら、60兆個ある全ての細胞に影響を及ぼす可能性もあります。
また「バイオハッキング」や「遺伝子ドーピング」といった問題も指摘されています。
バイオハッキングとは、いわば「遺伝子のハッキング」で、ゲノム編集が安易かつ無責任に行われる行為です。
今後ゲノム編集の技術が普及してくると、”素人”も生物の遺伝子改変を行うようになる日が来るかもしれません。
すると巨大化した動物や昆虫など、本来生まれるはずのない生物が生まれ、生態系を破壊してしまうこともありうるのです。
遺伝子ドーピングとは、ゲノム編集によって身体能力を向上させることです。
石井直方 東京大学教授の「石井直方の筋肉まるわかり大事典(Amazon)」に、遺伝子ドーピングの概要が解説されていました。
遺伝子ドーピングでは遺伝子を人為的に改変して筋肉の発達を促します。
やり方は主に二つあります。
2 ミオスタチンの機能を阻害するタンパク質「フォリスタチン」の遺伝子を筋肉に直接注射する その後電気刺激を与えるとフォリスタチン遺伝子が筋細胞の中に入り、筋肉発達が促される
石井教授によると、1の方法は極めて難しく、成功の確率は非常に低いそうです。そして少なくとも2世代にわたる手法のため、現実的ではありません。
問題は2です。
こちらは動物実験ですでに手法が確立していて、さらには普通のドーピングと違って尿や血液からは検出されません。
検査を行ったとしても、遺伝子はもともと体内にあるものですから、「これは外から注入された遺伝子」といった特定はできません。
遺伝子ドーピングの摘発は非常に困難なのです。
石井教授は
これはスポーツというジャンルを超えて、人間の尊厳の領域にかかわる命題と言えるのです。
(363ページ)
と指摘されています。
ゲノム編集で筋力や反射神経などを向上させていても、それが意図的な改変の結果なのか、生まれ持った才能なのかを区別するのは困難です。
いわば”完璧なドーピング”であり、こうなるとスポーツが競技能力を競う場ではなく、ゲノム編集技術を競う場になりかねません。
さまざまな恩恵をもたらしてくれるゲノム編集ですが、使う側の倫理観も求められるのです。