歴史上の人物の健康関連話をまとめています。
九州スポーツ新聞「ヘルス」欄に連載されていた、若林利光医師の「長寿の道しるべ」を参考にしています。
上杉謙信 40代で脳梗塞 後遺症に手のしびれ・発話困難
41歳の時、脳梗塞と思われる発作を起こし、その後は手が震えて字を書くのが困難になる。右手に症状が出ているので左脳に梗塞が起きたと考えられる。
これ以前にも、戦場で発作を起こし「謙信倒れる」と敵方の北条勢を喜ばせている。
大変な酒好きに加え、越後の寒冷な気候も血管にダメージを与えた可能性が高い。
天正6年3月9日トイレで倒れ、4日後に亡くなる。
言葉を話せなくなっていたことから、この時も左脳に梗塞が発生したと思われる。
享年49で、ちなみに信長が亡くなったのも49歳。
徳川吉宗 自ら薬を調合していた 隠居後に脳卒中
質素倹約を奨励し、自身の食事も贅沢をやめ、一汁三菜にする。
小石川養生所を設置して庶民の健康に配慮する一方、医師には幕府の書を貸与し、医師から著書の献上を受ける。自ら薬を作り部下たちに与えるほど医療に理解が深かった。
61歳を前に、長男家重に家督を譲り隠居。その翌年、脳卒中で倒れる。
外出できるまでに回復するが、4年後に病状は悪化する。死の3ヵ月前には鷹狩りをするも、満66歳で死去。
腎臓に障害があったとされる。
チャールトン・ヘストン 前立腺がんにアルコール依存症 アルツハイマーも
「ベン・ハー」や「猿の惑星」など多くの映画で活躍したヘストンは、公民権運動に参加し、全米ライフル協会会長にも就任するなど映画界以外でも精力的に活動した。
タフガイのヘストンも、75歳で前立腺がんを発症。放射線治療が功を奏すが、2年後にはアルコール依存症になってしまう。さらに2年後の79歳にはアルツハイマー病であると公表。
公表から3年後、病状は悪化して寝たきりに近い状態になり、その後は闘病生活が続く。
ハリウッドきっての愛妻家だったヘストンは、64年間の結婚生活を全うし、最期は夫人のリディア・クラークに見守られながら安らかに亡くなった。
享年84だった。
グレゴリー・ペック 医学の知識もあった 心臓発作で入院後に酒量を制限
「ローマの休日」でオードリー・ヘップバーンと共演し、日本でもよく知られたグレゴリー・ペックは、アクションシーンもお手のものだった。
若い頃は酒豪で知られていたが、心臓発作を起こし入院してしまう。医学も勉強していたペックは、飲み過ぎが良くないと悟り、以後酒量を制限し始める。
ただし断酒したわけではなく、タバコは吸い続けた。
映画デビューから引退まで52年間も現役俳優として活躍したペックは、2003年6月12日に87歳で亡くなっている。肺炎だったが、自宅で奥さんに看取られながらの静かな最期だった。
ルネ・デカルト 友人からうつった肺炎が悪化
「我思う、ゆえに我あり」で有名なフランスの哲学者、ルネ・デカルトは、ヨーロッパを転々とした後、32歳でオランダに住み始める。
以後21年間オランダで過ごしたデカルトだったが、神学者に対する迫害がひどくなり、スウェーデンのクリスチナ女王の誘いを受けてスウェーデンに移住する。
しかしスウェーデンの予想以上の寒さにデカルトは辟易し、「この国では人の思想も、水と同じく凍ってしまう」とまでコメントしている。
1650年1月からクリスチナ女王に講義をすることになったが、朝5時から始まるため、朝に弱いデカルトには辛かった。
ある日、同じ大使館で生活していた親友のシャニュが肺炎を発症し、デカルトが看病を始める。すると肺炎がデカルトにうつってしまう。
皮肉なことにシャニュは回復し、デカルトは肺炎を悪化させて亡くなってしまう。1950年2月11日、53歳だった。
中江兆民 「喉頭がんで余命一年半」と告知されると…
日本における自由民権運動の理論的指導者として活躍した中江兆民は、53歳のとき喉の痛みを感じて診察を受ける。
自分の症状が悪いとの自覚があったからか、兆民は医師に病名を教えて欲しいと訴える。すると医師の答えは「喉頭がんで、余命1年半」だった。
それでも兆民は落胆することなく、「残された1年半を全力で生きよう」と決意。当時大好評を得た「一年有半」を執筆し、続編まで出版する。
しかしその間も病状は悪化し、ついには呼吸困難になってしまう。
気管切開を受け、声を失った兆民は、筆談により自分の意思を伝え始めるが、やがてそれもままならなくなる。
1901年12月13日、54歳で他界。
喉頭がんは飲酒と喫煙習慣のある40歳以上の男性に多い。
兆民も塾での講義では傍らに酒瓶を置いており、また愛煙家でもあった。